根腐れ草
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2008/08/27//Wed.
祖父母との思い出を書いていこう
じいさんが亡くなった日は、
すごい晴れ渡った秋空の日で、
じいさんは迷わずに旅立ったのだろうと思う。

またヤマの家は広くなった。


社会人になった私は
頻繁にヤマに行くことが出来なくなった。


そういえば、じいさんとおばあさんの昔の話は聞いたが、
俺が生まれる前のおばあちゃんのことを俺は全く知らない。
少し知りたい気がするけども、まだ聞かなくていい気がする。
じいさんとおばあさんの昔のことは、
二人が亡くなった後に知った。
だから、おばあちゃんの昔の話はまだ聞きたくない。

おばあちゃんは会いに行き、
帰るときにお小遣いをくれる。
ある時、
おばあちゃんが、涙を浮かべて
そっと1万円をくれたことがあった。
「本当に会いに来てくれるだけでうれしい」
そういって、顔をクシャクシャにして、
俺にお金を握らせた。

おばあちゃんが俺に
「あつしは、まだ結婚はせんのか」
俺の子供を見たいと言っていた。
ごめん、まだもうちょっと時間がかかるよ。

心配してくれてありがとう。
また行くよ。

いつか、俺の嫁さんと子供の顔を
おばあちゃんに見せっから待ってろ。

まだ全然相手も決まってないけど、
必ず幸せな俺の姿を見せるよ。

いつも心配してくれてありがとう。

ずうっと元気で居てください。






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2008/08/27//Wed.
祖父母との思い出を書いていこう5
私が高校生の時におばあさんが
入院してそのまま亡くなった。
山から転落して谷へ落ちても
生きていたような人なのに、
病気には勝てなかった。

ヤマでは独特の葬式が行われた。
棺を親族一同で担ぎ、私達孫はその前後を
楽器のような仏具を鳴らしながら、ヤマの墓地まで
歩いた。

おばあさんの亡くなった後、
おばあさんは、昔、大きな製鉄会社の
唯一の女性社員をやっていたことなどを
聞かされた。
信じていた通り優秀な人だった。
誇りに思う。

そしてヤマの家が少し広くなった。

しばらくして、じいさんがボケだした。
私がもう大学生のころ、久しぶりにヤマにいったとき、
私の顔をじいさんが間近でジロジロ見た。
これ自体は昔からのじいさんの癖で、
ジロジロ見た後ニンマリ笑ってくれていたものだ。

でもその時は、ジロジロ見た後、
大声で泣き出した。
「あつしがこんな大きくなっちまったぁ」
ボケたじいさんのなかでは、
私はずっとちいさいままだったんだ。
一緒に床屋にいったころのままの私を
待っていたんだろう。

そのおじいさんも80才を向かえて亡くなった。
山で育ち、山で死んだ、
山しか知らない男だった。

おじいさんが焼かれるとき、
おばあちゃんの泣き顔を初めて見た。

細いけど、年をとっても筋肉の落ちない
じいさんの身体は骨だけになった。

葬儀は沢山の親族が集まった。
5人の子供と、12人の孫、さらに何人かのひ孫。
知らないおじさんたち。
みんなで酒をのんだ。
久しぶりに親族がみんな集まった。
「おじいさんがみんなを会わせてくれたんだね」と
いとこが言った。
そこでいろんな人から、
おじいさんの昔の話を聞いた。
実直な人で、華々しいことはしない人。
でもいろんなことをやっていた。
頼まれたことはやる人だった。
2008/08/27//Wed.
祖父母との思い出を書いていこう4
おばあちゃんはいつも笑っている人だ。
私には甘い。
おじいさんとおばあさんとおばあちゃんが
ヤマに住んでいたが、
多分この人が私の本当の祖母なんだと思う。
何回か関係を説明されたが、未だに良くわからない。
多分どうでもよい。
3人とも私のじいちゃんばあちゃんだ。

ばあちゃんはオレにいつも笑ってくれた。
ヤマに行けばいつも一緒に居てくれた。
お祭りにも花火大会に山の畑にも連れて行ってくれた。
だからいろんな思い出があるようで、
逆にあまり憶えていない。
でもいつも笑顔で居てくれた。





2008/08/27//Wed.
祖父母との思い出を書いていこう3
じいさんは足をチェーンソーか何かで
切って大怪我をしたことがあった。
町の病院に運ばれたとき、
足には沢山の蓬の葉が貼り付けられていて
医者を驚かせた。
じいさんは、
「血止めの薬草だぁ」といったらしい。

家族でヤマに行ったときには、親父と工事現場の
話をしていた。

おばあさんは、今思えばツンデレだった。
いつもニヒルな笑みを浮かべて、私を見ていた。
嬉しい時も皮肉を言う人だったが、
その目はいつも微笑んでいた。
とても才能の溢れる人で、
裁縫で人形を作っていた。
習字の先生で、
夏休みの宿題に習字があったとき、
私に教えてくれた。
本当に私には字の才能が無くて、全然キレイに書けないのに、
根気良く教えてくれた。

今でも字は汚いが、払いの時だけは、
あの習字練習の時の癖が出る。

ビールと煙草を呑む人で、
口うるさかったが、誇りが高くて、
みんなとあまり一緒にいないけど、
それでも存在感がある人。

全く大したことはないが、
おばあさんが、私の住む町まで降りてきて、
小学校だった私に千円くれて一緒にお菓子を買いに
いったことがある。
私は家を出るときに貰った千円を持って出るのを
忘れて、怒られた。
「お金はもっと大事にするんだ」と。
今でも憶えている。

今でも時々同じミスをするからかな。

村のお祭りに行ったとき、
おばあさんにお金を渡されて、
田楽を買ってきてくれと頼まれた。
私は露天で買った味噌田楽を
おばあさんの目の前で落とした。

おばあさんは、
「あーあ、オレじゃなくて土が食っちまった」
と笑っていた。
ユーモアもある人だった。
2008/08/26//Tue.
祖父母との記憶を書いていこう2
私はよくヤマに行った。

畑に行くときは喜んでついていった。
3人が畑を耕すときは、道端に座り、一人で遊んだ。

昼休みや、休憩したときには、桃ジュース、「ネクター」を貰ってよく飲んだ。
畑には、こんにゃくいも、いんげん、じゃがいも、ふきなどが植わっていたのを思えている。
帰るときは、鎌しか入っていなかった大きな竹篭が野菜でいっぱいになっていた。

以前に書いたが、私が小学校一年のとき(23年も前だ)、日航機が隣りの村に墜落した。
私の住んでいた町は大きな騒ぎだったが、それよりも現場に近いヤマはいつもと変わらなかった。

じいさんは、50ccのバイクを持っていた。
バイクに乗せてもらって山を20分ほど下った、少し大きい村の床屋に連れて行って貰ったことがある。
小学生低学年の私達は、髪型は「スポーツ刈り」が流行っていた。それしか知らなかった。
その村の床屋でもスポーツ刈りにして貰った。
じいさんはスポーツ刈りを知らなかったらしく、
「ずいぶんハイカラなんだなあ」と言っていた。
その時の話を元気な頃のじいさんは、しょっちゅうしていた。

山には、畑まで続く道があった。
獣道のようなそこの村人しか通らない道だ。
実際には、道は畑を越えて、山を越える峠まで続いていたが、
そこまでは用事が無く、行くこともない。
その峠まで、じいさんが、私を連れて行ってくれたことがあった。
峠道は祠(道祖神だと思うが)がいたるところにあり、
必ずじいさんは、そこにお供え物をしたり、安全を祈願しながら
山道を進む。畑を越えて、しばらく進むと、大きな木の下に
小さな祠がある。
それを超えてさらに、1時間ほど進めば、峠に出る。
峠にも祠があり、私とじいさんは、そこで、おばあちゃんが作ってくれた
お昼を食べる。
私がこの祠がいつごろ作られたのかを聞くと、
祖父は「弥生時代」と答えた。
それはいくらなんでも古すぎだろう。
じいさんは怪訝そうな私の顔を見て、
「あつしは歴史が好きなんだのう」と大声で笑っていた。
お昼を食べ終わると、
じいさんはこの森に子供の頃のおもちゃを隠したんだといい、
木々の洞を探し出した。
いろんな洞に手を突っ込んで探し廻ったが、結局じいさんの
おもちゃは見つからなかった。

おそらくじいさんの宝物は、
あの峠の森の中にまだあるのだろう。

プロフィール

土下座エ門

  • Author:土下座エ門
  • 1986569代目 中村土下座エ門になりました。
    先代が退職したので代替わり。
    好きな味噌は赤味噌。

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